鹿の湯の源泉発見後、次々と温泉が発見され、数多くの温泉が楽しめます。それぞれ効能・泉質が異なるため、湯めぐりが楽しめます。また、近くには温泉街や史跡などがございますので、散歩・湯めぐりはいかがでしょうか。
鹿の湯の源泉発見後、次々と温泉が発見され、数多くの温泉が楽しめます。それぞれ効能・泉質が異なるため、湯めぐりが楽しめます。また、近くには温泉街や史跡などがございますので、散歩・湯めぐりはいかがでしょうか。
那須の観光名所であり、九尾の狐伝説で有名な殺生石のそばに、現在の共同浴場「鹿の湯」があります。
那須温泉の開湯は古く、その発見は第34代舒明天皇の御代(630年ごろ)に遡ります。茗荷沢村(みょうがさわむら:現在の那須町高久乙)に住む郡司の狩野三郎行広が狩りの途中、射損じた白鹿を追いかけ霧雨が谷(現在の鹿の湯あたり)という深い谷に分け入ったところ、自らを温泉の神と告げる白髪の老翁が現れました。老翁の進言に従って三郎は鹿を探し、温泉に浸かって矢傷を癒している白鹿を見つけました。三郎はこの温泉を鹿の湯と名付け、温泉の杜(現在の那須温泉神社)を建立し、射止めた鹿角を奉納したといわれております。
こうして開湯された鹿の湯は、温泉発見において日本で32番目に古く、栃木県では塩原、日光を抑えて最古、同じ関東の熱海、修繕寺、草津、伊香保らとともに、古い歴史を持つ日本の名湯として全国にその名を知られています。
那須温泉の源泉温度は63~80度と高く、鹿の湯の浴槽の湯温も高めに設定されています。この熱い湯に浸かるため、鹿の湯には時間湯という独特の入浴法が伝えられてきました。泉質は硫黄泉で、皮膚病、婦人病、胃腸病、疲労回復などに効果があるといわれています。
湯の香りである硫黄臭は那須湯本一帯に漂っており、一歩足を踏み入れると、歴史ある温泉らしい情緒のひとつとして、嗅覚でも湯治気分を大いに盛り上げてくれます。
江戸時代の元禄4年(1691)に発見されたと伝えられる大丸温泉は、茶臼岳東側の中腹、白戸川に沿った谷間にあります。別名大丸塚温泉ともいい、那須温泉郷の中でも2番目に高い標高1,300mの地点、那須ロープウェイ山麓駅近くにあります。
茶臼岳を水源とする白戸川の流れそのものが温泉となっており、これをせき止めて作った大露天風呂「川の湯」は、大自然に囲まれた川の露天風呂という独特の風情で、温泉ファンに人気の高い温泉です。
大丸温泉は、黒羽藩主大関氏や乃木希典将軍が好んだ温泉としてもよく知られています。乃木希典将軍は、西那須野(現在の乃木神社あたり)に居住していたころの約10年間、ほぼ毎年この大丸温泉に入浴、滞在していました。
泉質は単純泉で、結核、慢性湿疹、神経痛やリウマチ、胃腸病などに効能があるとされています。また、大丸温泉の川下にある地蔵の湯温泉は、那須御用邸に引き湯されています。
余笹川の源流近くの奥深い谷間にある一軒宿で、公共駐車場に車を置いて400mほど山沿いの歩道を歩いたところにあります。北湯とも呼ばれ、昔から湯量が豊富なことで知られています。
江戸時代の元禄9年(1696)に発見された北温泉は、温泉の由来や起源の詳細は不明ですが、源泉の岐路が多いことから「岐多温泉」と記された暖簾が残っています。明治時代の漢字が統合されていく過程で北温泉となったとされていますが、古くは喜多温泉という記述もあります。
現在の北温泉旅館は、江戸安政時代に建てられた建物を中心に、明治、昭和に増築されてできた古い木造3階建てで、創業期の古き良き面影を濃く残しています。10×15mの大きな「泳ぎ湯」やもともとは山伏の修験場であった「天狗の湯」などユニークな風呂が知られています。
単純泉で、神経痛やリウマチ、痛風などに効果があるとされています。
弁天温泉は、天保年間には温泉場としての記録がありますが、その発見の由来は不明で、明治17年(1884)に小林佐秀氏によって再発見された温泉です。伝えられる話によると、ある夜、小林氏の夢枕に現れた弁財天のお告げにより、出湯のあることと地に埋もれている自分の像を世に出すよう教えられたといわれています。現在の旅館の裏にこの弁財天を祀る祠があり、その奥の岩窟内から温泉が湧出しています。
この弁天温泉は、那須温泉の湯ただれを治す「仕上げの湯」としても知られており、褐色の浮遊物を有する無色無臭の単純泉で、胃腸病、脳神経病、リウマチ、疲労回復などに効果があるとされています。
場所は、茶臼岳の中腹で休暇村那須にほど近く、苦土川上流の谷間、標高に1,200mにあります。
茶臼岳の東側中腹、高雄股川の上流に位置し、別名高雄股温泉とも呼ばれており、江戸時代の万延年間(1860~61)に発見されたといわれています。
当時は山岳信仰が盛んで、高雄温泉は「温泉(ゆぜん)様の湯」と神聖視され、長い間浴用に供されませんでした。その後、白湯山信仰の行者が身を清める湯となり、「御行の湯」と呼ばれるようになりました。信仰登山が衰退して以降は、明治時代に浴場を上流の源泉の傍らに移して、湯垢(湯の花)採集が盛んに行われました。
含硫酸塩硫化水素泉で、泉温は40度と低いが、豊富な湯の花が浮き沈みする白濁した湯は人気があり、慢性皮膚病や神経痛などに効果があるとされています。
一時は宿泊施設がなく、無人の露天風呂があるのみでしたが、現在は旅館が営業しており、日帰り湯も楽しめます。
那須温泉の北西約3km、八幡崎にある温泉で、源泉は白戸川河岸にあります。標高は約1,100mで、那須連峰を背にして広く那須野が原を一望できる眺望は、那須温泉郷随一のすばらしさといわれています。
明治23年(1890)、白戸川河岸から湧出した湯を木管で引き湯し、明治43年(1910)に旅館が開業しました。
この八幡温泉の真ん前の南東の斜面に、かつて那須与一宗隆が遠矢の稽古をしたという伝説の残る八幡の馬場がありました。放牧馬が、有毒な成分を持つツツジだけを残して一帯の木の芽や草を食べつくしたことから、現在では約10万本のツツジが自生する一大群生地となりました。毎年5~6月にかけて満開となり、行楽客や地元民の目を楽しませる那須の観光名所となっております。
泉質は単純泉で、疲労回復、神経性疾患や痔疾などに効果があるとされています。
大正12年(1923)、大丸温泉の源泉から木管と自然流下を利用した引き湯に成功し、那須温泉の南、旭橋の下手に旅館が開業し、その辺り一帯を新那須温泉と呼ばれています。
大正15年(1926)には、近くに那須御用邸が完成し、それ以降、別荘地やホテル、旅館、会社の保養所などが増え、那須高原を代表する保養地のひとつとなりました。
引き湯とはいっても源泉の温度は70度と高く、泉質は単純泉で、神経痛、筋肉痛、関節痛、疲労回復などに効能があるとされています。
三斗小屋温泉は、那須ロープウェイ山頂駅を降りてから最短でも2時間という登山ルートを経なければたどり着けない奥地にあります。茶臼岳の東にそびえる朝日岳(1,903m)の西斜面、標高約1,500mの高地に湧出し、那須町地内にある那須塩原市の飛び地に位置しています。
康治元年(1142)、奥州信夫郡信夫村の生島某により発見されたと伝えられています。
元禄8年(1695)には、鬼怒川回りの会津西街道が天災で遮断されたため、会津から江戸への陸路として新しく会津中街道が開かれました。三斗小屋温泉が賑わうようになったのは、この会津中街道沿いに三斗小屋宿、板室宿が設けらてからとなります。
最盛期の明治元年ごろには5軒の宿が営業しておりましたが、現在では2軒が冬季を除く4月から11月にかけてのみの営業で、シーズン中は登山客や秘湯を求める湯治客に人気があります。旅館は自家発電のため、午後9時の消灯後はランプがともされ、大自然のまっただ中の温泉で、人工的な光に邪魔されない満天の星空を楽しむことができます。
泉質はアルカリ性単純泉で、無味無臭無色透明、関節リュウマチや消化器系の疾患、婦人病、その他慢性湿疹に効果があるといわれています。
三斗小屋の名称の由来には諸説があり、三斗小屋へ行く峰路を越すには牛といえども三斗以上の米は運べないとの説、三斗小屋温泉へ運ぶ米俵は三斗が一俵であるなどの説があります。
那須連山を望む3万坪の敷地内から、平成17年に地下1,500メートルから湧き出したナトリウム塩化物泉(弱アルカリ性高温泉)。
泉温56度、毎分156リットル、日量230トンの無色透明な良質な源泉を二重構造になった管の一方から源泉を通し、もう一方から冷水を通すといった、チタン鋼管熱交換器によって適温にし、源泉に一滴の加水もせず100%の純度を保ったまま、湧き出たばかりの新鮮で勢いのある源泉を提供しています。
この泉質の特徴は、あとからじわじわ汗が出てきてよく温まり、特に美肌、疲労回復の効果が期待できます。
地下1,400メートルから湧き出た源泉82度、湧出量300L/分、100%源泉天然かけ流し温泉。泉質はナトリウム-塩化物温泉。殺菌効果が高く、浴用後、肌がしっとりし、大変温まり、湯冷めしにくいという特徴。湯量・成分バランス・源泉溶存物質量等において恵まれた極上の温泉とご評価頂いております。
▲芦の湯別棟「薬草の湯」
旧奥州街道の宿場町芦野本陣を望む丘の上の一軒宿で、
那須高原、那須温泉郷の喧騒から離れた穴場的存在です。
自家用源泉2本を持ち、pH9.85のアルカリ性単純泉と薬草の湯は「枝忘れの湯治場」として高齢者のファンが多いことで有名です。
最近は若い女性の来場もふえてきています。
▲クリックすると拡大画像がご覧になれます。(昭和初期の鳥瞰図)
▲那須温泉全景
那須温泉郷は、今から約1390年前の舒明2年(630)、狩野三郎行広の鹿の湯(元湯ともいう)発見に始まり、明治以前に板室、三斗小屋、大丸、北、弁天、高雄と次々に温泉が発見され、これを那須七湯といい、すでに江戸時代には世に知られていました。明治時代に八幡温泉が、大正時代には、旭、飯盛、郭公が発見され、さらに、大丸温泉の湧出湯を自然流下によって引用した新那須温泉を加えて那須十二湯と呼ばれていたこともありましたが、現在では、地理的にやや離れた板室を除いて、那須十一湯と呼ぶのがが主流となっています。
また、旭、飯盛、郭公温泉には現在、宿や温泉の設備はなく、温泉跡地と化しているため、那須温泉(鹿の湯)、三斗小屋温泉、大丸温泉、北温泉、弁天温泉、高雄温泉、八幡温泉を那須七湯、新那須温泉を加えて那須八湯と呼ぶこともあります。
那須温泉が初めて文献に現れるのは、温泉発見から約100年後、奈良時代の天平10年(738)に著された正倉院文書『駿河国正税帳』です。そこには小野朝臣が従者12人を伴って湯治のため那須温泉に向かうという記述があり、そのころすでに奈良の都にまで那須温泉が知られたことがうかがい知れます。
そのほかにも歴史上の著名人が那須温泉を訪ねた記録を挙げると鎌倉時代には、建久4年(1193)に源頼朝が那須野の狩りの際に入湯、文永2年(1265)に日蓮上人が病気療養のため湯治に訪れています。また、俳聖松尾芭蕉が、おくのほそ道の行脚の道中で当地を訪れ入湯したのが、江戸時代の元禄2年(1689)のことと伝えられております。
▲那須温泉神社
温泉湯治はもともと、将軍や大名だけが行っておりましたが、江戸時代に五街道が整備されると大名行列が盛んになり、江戸中期には庶民に温泉湯治が全国レベルで盛んになっていき、鹿の湯周辺にも宿屋などの街並みが出来てきました。
しかし、温泉場特有の火災が多く1805年、1835年、1850年と温泉街が消失する災難が続き、さらに、安政5年(1858)には大雨による未曾有の山津波(土石流)が発生し、湯川沿いの温泉や家屋が流失、死者も出る大惨事がありました。この災害後、黒羽藩主大関増徳の援助により、那須温泉神社参道にあたる湯川右岸の高台(現在の湯本本町通り)に温泉を移転。1軒当たり間口5間(約9m)ずつ地割りをし、28の湯宿が営業を再開。この地域を新屋敷といい、災害に遭った古屋敷の源泉から松の木で作った木管で湯を引き、通りの中央に5つの湯屋を造りました。このころの湯宿には内湯はなく、宿泊客は共同浴場であるこの五つの湯屋を利用していました。
▲温泉場市街
明治時代には鉄道(東北本線)や、黒磯~那須湯本の県道が開通。温泉街も整備され、明治40年には、旅館19軒、飲食店他18軒、茶屋4軒の約40軒が営業しておりました。大正時代には内湯付きの旅館が登場し、これ以降は内湯旅館が主流となっていきます。共同浴場は、地元住民のために場所を移して残され、現在の那須湯本の原型となっていきました。
その後、第二次世界大戦時には空襲による87世帯の焼失などがありましたが、戦後の高度経済成長期には、東北自動車道、東北新幹線の開通により別荘地としても知られるようになりました。
昭和61年の総合保養地区整備法、いわゆる「リゾート法」の公布により、寮、保養所、ペンションなどの宿泊施設が激増。併せてテーマパーク等娯楽観光施設の整備などにより温泉需要も急増し「国際観光地那須」として発展してきました。
平成15年の調査では、旅館、ペンション、寮、保養所などの宿泊施設は349軒、収容数21,943人で、年間約490万人の方が那須温泉郷に宿泊しております。
温泉番付とは、温泉地を大相撲の番付に見立ててランキングしたものです。初めて作られたのは、江戸時代の安永年間(1772~1781)ごろといわれ、東日本の温泉地を東方、西日本の温泉地を西方に分け、人気ではなく温泉の効能の高さを元に、全国100ヵ所近くの温泉が番付されていました。
温泉の番付は、作成された地域や年代により多少の違いがありますが、最高位(大関)は常に共通で、東は草津、西は有馬となっていました。文化14年(1817)に発行された「諸国温泉効能鑑」によると、東方の関脇が那須、西方では城崎で、那須温泉が東日本で草津に次ぐ二番手に格付けされています。那須温泉の番付はどの番付表においても総じて上位にランクされていて、江戸時代から那須温泉が湯治場として高く評価されていたことを窺い知ることができます。